カテゴリー: アユタヤ朝関連遺跡
April 15, 2018
今日は、
ロッブリー遺跡その3‐バーン・ウィチャエーン
です。
バーン・ウィチャエーンは、タイの中部、ロッブリーにある、ギリシャ生まれで1675年にタイに渡来した後、ナライ王(在位1656-1688年)のもとで大臣を務めたコンスタンティン・フォールコン(称号:チャオプラヤー・ウィチャエーン)の邸宅の跡でありチャオプラヤー・ウィチャエーンの家と呼ばれる邸宅跡です。
もともとはフランス大使のために建てられた建造物でした。
当初、建物はナライ王により、1658年にロッブリーに滞在していたナライ王のもとを訪れたフランス大使アレクサンドル・ド・ショーモン(シュバリエ・ド・ショーモン)の住居として建造されました。
その目的によりこの複合建造施設は当初、使節を迎える王室の迎賓館として“Ban Luang Rab Rat Thut”と呼ばれました。その後、王に仕えたコンスタンティン・フォールコンの官職名であるチャオプラヤー・ウィチャエーンにちなんで付けられたバーン・ウィチャエーンの名称で知られるようになりました。
もっと興味のある方は、写真をクリックしてください、Flickrの表題のアルバム・ページが開きます。
以上
ロッブリー遺跡その3‐バーン・ウィチャエーン
です。
バーン・ウィチャエーンは、タイの中部、ロッブリーにある、ギリシャ生まれで1675年にタイに渡来した後、ナライ王(在位1656-1688年)のもとで大臣を務めたコンスタンティン・フォールコン(称号:チャオプラヤー・ウィチャエーン)の邸宅の跡でありチャオプラヤー・ウィチャエーンの家と呼ばれる邸宅跡です。
もともとはフランス大使のために建てられた建造物でした。
当初、建物はナライ王により、1658年にロッブリーに滞在していたナライ王のもとを訪れたフランス大使アレクサンドル・ド・ショーモン(シュバリエ・ド・ショーモン)の住居として建造されました。
その目的によりこの複合建造施設は当初、使節を迎える王室の迎賓館として“Ban Luang Rab Rat Thut”と呼ばれました。その後、王に仕えたコンスタンティン・フォールコンの官職名であるチャオプラヤー・ウィチャエーンにちなんで付けられたバーン・ウィチャエーンの名称で知られるようになりました。
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(19:00)
April 14, 2018
今日は、
ロッブリー遺跡その2‐ワット・プラシー・ラッタナ・マハタート
です。
12世紀作のアンコールワット様式のヒンドゥー寺院でしたが、その後増改築が繰り返され、スコータイ様式やアユタヤ様式などが混在して今の形になったと思われます。
広い敷地を持つ大規模なクメール寺院が始まりであったと思われます。
もっと興味のある方は、写真をクリックしてください、Flickrの表題のアルバム・ページが開きます。
以上
ロッブリー遺跡その2‐ワット・プラシー・ラッタナ・マハタート
です。
12世紀作のアンコールワット様式のヒンドゥー寺院でしたが、その後増改築が繰り返され、スコータイ様式やアユタヤ様式などが混在して今の形になったと思われます。
広い敷地を持つ大規模なクメール寺院が始まりであったと思われます。
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(19:00)
November 11, 2017
今日は、
『古都アユタヤ』番外編.-2011年タイ中部大洪水直後(約2か月後)のアユタヤ遺跡
です。
1. アユタヤ島外西側のワット・チャイ・ワッタナラームがまるで水上寺院のようになっていました。
写真をクリックしてください、Flickrの表題のアルバム・ページが開きます。
2.ワット・マハタートは水は引いていましたが、仏頭を包み込んでいる榕樹には、はっきり水が上がった白い線がついていました。
3.ワット・プラシーサンペットも水は引いていましたが、外壁に水没した白い跡がくっきりついていました。
以上
『古都アユタヤ』番外編.-2011年タイ中部大洪水直後(約2か月後)のアユタヤ遺跡
です。
1. アユタヤ島外西側のワット・チャイ・ワッタナラームがまるで水上寺院のようになっていました。
写真をクリックしてください、Flickrの表題のアルバム・ページが開きます。
2.ワット・マハタートは水は引いていましたが、仏頭を包み込んでいる榕樹には、はっきり水が上がった白い線がついていました。
3.ワット・プラシーサンペットも水は引いていましたが、外壁に水没した白い跡がくっきりついていました。
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(19:00)
November 10, 2017
今日は、
アユタヤ朝時代のその他の都市の遺跡
です。
世界遺産には含まれませんでしたが、アユタヤ朝時代に栄えて、今でも遺跡の残る都市がいくつかあります。
そうした中から、今日はタイ中部の
ロッブリーとピサヌロークの遺跡
を紹介します。
4-1.ロッブリーの遺跡群
アユタヤ王朝第3代・ナライ王が即位した1656年に現在の中央部ロッブリー県に建設した離宮。崩御した1688年まで雨期以外、ナライ王はここで海外からの来賓と接客し、アユタヤ朝の統治をしていたと伝えられている。ナライ王は西洋諸国との外交・貿易を盛んに行っていたなどのこともあって、アーチ型の玄関の宮殿をはじめ、迎賓館のバーン・ウィチャエーンやカトリック教会など西洋の建築様式を取り入れた建物を数多く建設した。
写真をクリックしてください、Flickrの表題のコレクション・ページが開きます。
各遺跡の写真をご覧になりたい方は、さらに各遺跡の写真を集めたアルバムの写真をクリックしてください。
4-2.ピサヌローク
ピッサヌロークはスコータイ王朝時代から主要都市として発達していた。またボーロマトライローカナート王の治世に一時アユタヤー王国の首都であり、タイ三大王の一人ナレースワン大王の故郷でもあった。
タイ仏教上、現在最も美しい仏像と言われる「プラー・プッタ・チンナラート(チンナラート仏)」が鎮座しているワット・プラ・シー・ラタナー・マハータートがあります。
写真をクリックしてください、Flickrの表題のコレクション・ページが開きます。
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アユタヤ朝時代のその他の都市の遺跡
です。
世界遺産には含まれませんでしたが、アユタヤ朝時代に栄えて、今でも遺跡の残る都市がいくつかあります。
そうした中から、今日はタイ中部の
ロッブリーとピサヌロークの遺跡
を紹介します。
4-1.ロッブリーの遺跡群
アユタヤ王朝第3代・ナライ王が即位した1656年に現在の中央部ロッブリー県に建設した離宮。崩御した1688年まで雨期以外、ナライ王はここで海外からの来賓と接客し、アユタヤ朝の統治をしていたと伝えられている。ナライ王は西洋諸国との外交・貿易を盛んに行っていたなどのこともあって、アーチ型の玄関の宮殿をはじめ、迎賓館のバーン・ウィチャエーンやカトリック教会など西洋の建築様式を取り入れた建物を数多く建設した。
写真をクリックしてください、Flickrの表題のコレクション・ページが開きます。
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4-2.ピサヌローク
ピッサヌロークはスコータイ王朝時代から主要都市として発達していた。またボーロマトライローカナート王の治世に一時アユタヤー王国の首都であり、タイ三大王の一人ナレースワン大王の故郷でもあった。
タイ仏教上、現在最も美しい仏像と言われる「プラー・プッタ・チンナラート(チンナラート仏)」が鎮座しているワット・プラ・シー・ラタナー・マハータートがあります。
写真をクリックしてください、Flickrの表題のコレクション・ページが開きます。
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(19:00)